敬老の日 祖父が孫に残した財産
子どもの中に生きている「おじいちゃん」
わたしの父が亡くなり早6年が経過し、7年目になりました。2015年の1月に父は他界し、残された家族は子どもたちを心身とも健やかに育てるために一生懸命みんなで力を合わせました。2人の子どもは当時まだ8歳と10歳。今回は、当時10歳で現在は17歳の息子のことを書きます。
息子は発達に特徴があり、特別な支援が必要です。同年齢の多くの子どもたちのできることができません。
できることは毎日、ご飯をたくこと。おかずを作ること。お風呂を洗うこと。ゴミを出すこと。
できることは毎日、マラソンをすること。できることは毎回、買い物へいくこと。できることは、お金を使わず自転車で遠くまで遊びにいくこと。
息子は、野菜が足りないと自分でサラダを作ります。魚が食べたいと近所の魚屋「うお亀」に買いに行きます。サランラップが切れそうだと「もうすぐなくなるから」と買い物に行きます。お米がなくなりそうだと買うように母親へ知らせます。
息子は、おじいちゃんが生きているころ、毎日散歩へ連れていかれ、買い物に同行し、晩ご飯には好きなおかずを作ってもらい、一緒に料理を作り、乗れるようになるまで毎日早朝に自転車の練習をしてもらい、学校教科書の音読を聞いてもらい、読めるようになるまで練習をました。
おじいちゃんが亡くなった同年5月31日、母親が市議会議員に初当選しました。それ以来は忙しい市会議員の子どもです。しかも我が家はひとり親。母親は家事まで手が回らないことが多く、そんな母親に「おれできるからおれがやるよ」「おじいちゃんと行ったからここ知ってる。一人で行けるよ」と言います。
息子は学校のテスト、漢字検定や数学検定、アルバイトの面接に落ち続けています。でもまた受けます。ひとつひとつ少しずつ練習すれば自分はできるようになると信じています。
息子の中でおじいちゃんが今でも生きています。そしてこれからもずっと生き続けていくでしょう。
「敬老の日」に敬う老人は、子どもの心の中に、そして関わった人の中に、「財産」とし存在するの。子どもの成長こそ感謝するものだと、わたしは学びました。